方丈記と平家物語 改訂版 5 養和飢饉

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(4) 養和の飢饉
 養和(1181年七月~82年五月)の飢饉は、天変地異の凶作に加え、源義仲軍、武田軍に包囲され、地方からの食糧の供給が途絶えた事も原因となっているとのこと。
 平家物語では、盛衰記と合戦状本のみ記載があり、その他では、「治承、養和の飢饉、東國、北國の合戦に、人種はみな滅びたりといへども、なほ残りて多かりけるとぞ見えし。」(百二十句本など)、「去る治承・養和の比より、諸國七道の人民百性等、源氏の為になやまされ、平家の為に滅ぼされ、家かまどを捨て、山林にまじはり、春は東作の思ひを忘れ、秋は西収のいとなみにも及ばず。いかにしてか様の大礼もおこなはるべきなれ共、」(高野本など)などと言ったもののみ記載があるだけである。
 合戦状は、冨倉 徳次郎「平家物語と方丈記」によると、「また、四部合戦本では、巻六に見える。」と記載があり、「今便宜四部合戦状の本文を記す。」とある。仏像を薪として売る話は無く、隆暁法印が餓死者の数を数えた話、崇徳院の時代にもあったとが載っていて、「この文を見るとき、これが方丈記の文章と類似するとことの多い事は、ここに説明する必要がない事と思う。」としている。
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 源平の闘いでは、治承四年(1180年)十月二十日の富士川の合戦で大勝した源頼朝関東勢が、直ぐに京に攻め込まず、寿永2年(1183年)七月二十七日の木曽義仲北陸信濃勢に入京を先んじられた。また、疲弊している中で、大軍の食料調達を京中で賄おうとしたため、人心の離反を招き、宇治川の合戦に、源範頼、義経に敗れた一因とも言われる。また、範頼、義経は、軍を京中に置かなかったのも、このためと言われる。このように重要な事態であるにも拘わらず、平家物語異本で取り上げるものが少なかったのは、あまりに悲惨で生々しい事であるので、娯楽としての平曲には馴染まなかったのかも知れず、記載がされず、若しくは削除されたのでは無いかと思う。
 盛衰記では、大福光寺本、前田家本が「秋大風」、流布本は「秋冬大風」となっており、「秋冬は大風」の盛衰記は、流布本を参考引用にしていると推察されるが、大福光寺本、前田家本の「あかにつき」、流布本の「につき」と盛衰記の「朱」であり、逆に大福光寺本、前田家本を参考引用しているのではと思う部分もある。丹は「あか」とも訓じるのでその色だけで表現したのかも知れない。
 「洪水」(大福光寺本、盛衰記)、「大水」(前田家本、流布本)は、共に訓で読むと「おおみず」、「疫癘」は、えきれい(大福光寺本、前田家本、盛衰記)、えやみ(流布本)とも読むのでどちらとも言えない。
 大風や洪水は、台風シーズンに起こる事から、冬を入れるというのも、春夏、秋冬の対句的表現をしたのかも知れない。
また、盛衰記には、「麦苗不秀、多黄死。九月霜降秋早寒。禾穂未熱、皆青乾と云本文あり。」と方丈記に因らない部分も挿入されている。
 大福光寺本、流布本の「家をわすれて山にすむ」は、盛衰記の「妻子を忘て山野に住」として、前田家本の「家を分かれて山に住む」を採用していない。
 大福光寺本、前田家本「その頭」、流布本「その死首」とあり、合戦状本は「其首」として
いるが、どちらも訓は「こうべ」なのでどちらとも言えない。
 大福光寺本には無い「聖、数多語らひて」は、合戦状本には、「語ヒツ、上人ヲ太多」とあり、前田家本、流布本を参考としている。
 方丈記三異本は、「河原、白河、にしの京、もろもろの辺地などをくはへて」としているが、合戦状本は、「河原、白河、西京、北山以下加ヘ辺地」と北山を加えており、どの本も参考としていない。
 仁和寺隆暁法印の餓死者数は、方丈記三異本とも「四万二千三百余り」としているが、合戦状本では、百人増えて「四万二千四百余り」としている。
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