方丈記と平家物語について 考察 その9

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薩摩琵琶

2 平家物語の作者
 平家物語の作者としては、徒然草による藤原行長、尊卑分脈の葉室時長を筆頭に、醍醐雑抄による「時長と源光行」の合作で、「十二巻平家は資経卿の書」、蔗軒目録「玄恵」、「藤原景清、平時忠」、「為長」加筆、「玄慧(玄恵)」法印編纂、「性仏」内裏読、三条大納言「公教卿」、三条大納言「教通卿」、右大臣「師兼」と、多くの執筆者、加筆者が擬せられている。また、少納言入道信西の一族の関与も指摘されている。
 しかし、これだけ方丈記との関連性があるのに、同時代を生きた鴨長明について書かれていないので、その鴨長明他検証をしてみる。
(1) 藤原行長と鴨長明
 行長を平家物語のプロジューサーとして、各章段の部分を多くの者が作成を担当したと仮定して、方丈記、平家物語を一応の説で、年代順に並べてみると、
 1185年 壇ノ浦で平家滅亡
 1186年 後白河法皇大原御幸
 1204年 長明出家。大原に住む。
 1205年 元久詩歌合(両者出詠)
 1208年 長明日野の方丈の庵に住む。
 1210年 高陽院殿楽府五番問答(行長失態)
 1212年 方丈記執筆
 1213年 建礼門院崩御(1223年という説もある)
 1216年 長明死去
 1221年 承久の変
 1225年 慈円死去
 1240年 藤原定家、紙背「治承物語六巻号平家」記載。
 行長の出家を楽府五番問答失態の1210年頃とすると、長明の死去の1216年までの6年間の間に、すべてを当時の者に取材して、書き上げるには無理がある。長明がパートを割り当てられたとして、その部分だけ記載したとすると十分時間はある。
 また、平家物語は、一挙に作り上げたと考えるより、琵琶法師たちに部分部分を演じさせながら、同時に取材と執筆をしていたと仮定すると、なんら問題はなくなる。
 ただし、総合プロジューサーは1人でないと、構成がバラバラになってしまう。また、第1部から演じられたとは限らず、例えば木曽義仲関係者への鎮魂を聞きたい人がいれば、そこから。平家の最後の様子を聞きたい人がいれば、そこからと。
 一つのエピソード(一話)は、当然、演じられる時間である一夜分と考えるべきであろう。人が集中して聞いてられるのは、せいぜい2時間であり、琵琶法師もせいぜい30分続けて歌うと声が出なくなる。毎夜毎夜演じるとなると1回分の時間をを減らさないといけない。
 先に述べた忠度の都落ちで、忠度の歌が千載和歌集に読み人知らずで入撰したのだが、それ以外で平家物語関係者として、経正が夏、秋上、源行家が羇旅、経盛が恋一で同じく読み人知らずで入撰している。
 また、延慶本・長門本には、忠度の歌として経正の歌「いかにせん宮城が原に(千載集では「御垣が原」)を挿入しており、行盛が都落ちの際、定家に歌を託し、それが新勅撰に実名入りで撰歌されていることも追加されている。このエピソードについて、知り得る人物として定家の他には、長明が考えられないだろうか。
 治承三十六人歌合については、編者不明であるが、月詣集は、上賀茂神社の神主である賀茂重保がまとめた物であり、作者として長明が入撰している。賀茂重保は、俊恵の歌林苑の会衆でもあり、スポンサーだったとされる。当然下鴨神社の鴨長明もそれらに出詠し、自らも千載和歌集に読み人知らずとして入撰していることから、この読み人知らずの歌は誰の物かは、知り得て可笑しくない。
千載和歌集
 山ふかみ火串の松はつきぬれど鹿に思ひをなほかくるかな(夏199経正集 経正)
 いかなればうは葉を渡る秋風にした折れすらむ野辺の刈る茅(秋歌上246治承三十六人歌合 経正)
 かくまではあはれならじをしぐるとも磯の松が根枕ならずは(羇旅歌520 月詣集 行盛)
 いかにせん御垣が原に摘む芹のねにのみ泣けど知る人ぞなき(恋一668治承三十六人歌合 経盛)
 音楽面からすると、作詞行長、演奏生仏らとして、作曲は誰が行ったのだろうという疑問が残る。当然生仏が作曲もしたと思われているが、何の根拠も無い、考察すらされてきていないのではないのだろうか。
 琵琶の三大秘曲を演奏できるほどの名手であった長明なれば、曲を作ることは容易かったのではないだろうか。作曲と一部分の原稿を担当し、それを行長に与え、それらの部分を思い返し出しているうちに、方丈記の着想を思い、書き出したのではないかと思う。
 その完成版を季広に見せ、その感想を紙の端にでも歌を書き、返してきたのが、いつの間にか本文のものと勘違いされて書写し、流布本には季広の歌が挿入されているのではないだろうか。
 方丈記には、源平の合戦が一つも取り上げられていない。平家が栄え、西海で滅亡し、義経が兄に追われ、平泉で戦死した栄枯盛衰そのものである。これはあえて避けたのではく、長明にパートが割り当てられなかったと考えてみるとつじつまが合う。
 平家琵琶は、盲僧琵琶ではなく、雅楽琵琶を使用するのも平家琵琶が雅楽琵琶の系譜を受け継いだからではないだろうか。
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薩摩琵琶の海老尻

(2)三人の下野の守 行長と源季広と範光
 方丈記・平家物語の関係者として挙げた人々の共通点は、九条家の家司であり、そのうち三人は関東の下野の守を経験しているということである。関東武士たちを直接見聞きし、知り合いも多かったことから、情報を得やすい立場といえる。特に合戦の樣子などの克明な描写は、当事者やその周辺者でないと知り得ないことが多数存在することから、元下野守という役職も大いに役立ったのではないだろうか。
 源季広の家は、信濃小路にあったとされ、その一族は信濃小路家と呼ばれる。荒唐無稽ではあるが、つまり出家して信濃【小路】入道と言われていも可笑しくない。また、行長の家はどこにあったのかは不明だが、もし同じ信濃小路に住まいがあったとすれば、信濃【小路】前【下野】司行長という考えも成り立つのではないだろうか。確証が得られることではないが。
 平家物語のゼネラルマネージャーが、慈円ということになれば、九条家の各者に協力を求めたとしても可笑しくない。
 源季広についても、もし、この方丈記流布本を書写した人物が季広であり、その読んだ後感想を自身の歌を記したとすることも考えられる。
 しかし、流布本が新勅撰成立後に書写され、その印象を新勅撰の季広の歌の類似点から追加したものとも考えられなくもない。他人の歌を、しかもそんなに著名というべきものではないものを、わざわざ書写に書き入れるだろうかという疑問が残る。古歌を挿入することは、よくあるかと思うが、古歌というにはあまりに新しいものであり、方丈記にふさわしい古歌はいくらでも、述懷歌や釈教歌の中に見いだせるのに、わざわざ季広の歌、しかも新勅撰という最新の歌集から取るだろうか?

(3) 加筆者 定家
 延慶本、長門本には、忠度の都落ちの後、定家が行盛の歌が新勅撰に撰歌する話がある。つまり、1240年に書写した際に、忠度・俊成に次いで、自分の話も追加したのではないだろうか。所々に存在する源平騒乱時代にはない新古今和歌集歌や雅成親王の本歌取りした歌などがあり、かなり歌に精通した者の存在が伺える。
 つまり、1240年書写した号平家は、延慶本・長門本の親本と考えても良いのではないだろうか。

(4) 方丈記の平家物語採用
 方丈記の記載が何故平家物語に採用されたのかということを、考えるに、まずその臨場感であろう。災禍の様子がまさに、克明に著しており、琵琶法師の語り物として、打って付けの文章だったのではないだろうか。
 また、和歌に秀で、音楽のセンスがあり、方丈記の流れるような文体は、後に日本の名文の一つに数え上げられる。

終わり

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